技術革新

産業資本

価値転換

大衆文化

消費社会

市井人定数

消費社会に百年の歴史あり。
誰が言ったか知りませんが、そんな言葉があります※1
産業構造の劇的で連続的な進化と、資本主義の神話的信頼とに支えられる大量生産と大量購買という側面から市民生活を分析するこの「消費社会」という概念は、近代社会の様相を捉える一視点の産物に過ぎません。
しかし、仮にこの概念化がまだ歴史的に確固たる学術評価を必要十分と言えるだけ獲得していないとしても、ひとつの社会様態が百年も続いているとするのであれば、考察対象としての実体に与えられうる正当性は認められてよいでしょう。

※1)実際は多分ないです。

昔どこかの国で謳われたという「ゆりかごから墓場まで」というスローガンを、人生のスパンを総括する指標として参考にできるのであれば、本考察で取り上げることとなる市井人定数のごく理解されやすいサンプルは次のようなものになります。
市井人定数/ゆりかご:1(単位・個)
市井人定数/墓場:1(単位・区画)
暴れてゆりかごを壊し、ふたつ目を必要とする元気な赤ん坊もいるでしょう。
いづれ墓碑を転地させるよう遺言する老人もいるかもしれません。
しかし彼らは平均値から見て無効な例外とみなします。
また同様に、市井人定数は個体間に生じるどれほど微細な差異も一切無視します。
つまり市井人という集団では、いかなる定数を求める上でも個体数値のばらつきは見られないということです。
というよりむしろ、それくらいの完全没個性的な集まりこそが真の市井人と呼ぶに相応しい母体です。

tab#09

世界は広いようで狭く、狭いようで広いです。
実に手垢にまみれた言い回しで恐縮ですが、手垢にまみれたという表現そのものも手垢にまみれていましていよいよ恐縮です。
人間の数は誕生以来おそらくずっと増加傾向にあって、それだけでも単純に個体間の平均的な物理距離そのものが縮んでいて世界は狭くなり、しかしたとえば現代人における互いの心の距離などはどんどん遠く離れるばかりのようです。
世界人口の増加とは別に、空間あるいは大都市間の時間距離は移動手段の飛躍的な進歩という形でも短縮されています。
徒歩から馬、鉄道や自動車、船に飛行機、今は地球を一周するのにどれくらいの時間を要するのでしょうか。
ある朝に友人とコーヒーを共にし、翌日の夜には地球の裏側にいる恋人とシャンパングラスを鳴らし合うことも不可能ではない時代なのかと思います。
そうかと思えば、四六時中顔を合わせている夫婦が互いの心の内を微塵も理解しようとしないこともごく普通に見られる状況で、一体全体世界の距離は縮まっているのか広がっているのか難しいところです。
通信距離に至っては、もうほとんどあってないようなものです。
地球の裏側を相手にしても、キーボードを打てば即時的に文字の交換が可能で、それどころか互いの顔をモニターで見ながらほとんどタイムラグのないまま音声を交わせるまでになっています。
ところがこれまた、ひとつ屋根の下に暮らす夫婦が一日ひと言も口をきかない場面なども別段珍しいものでもなく、一体全体どうなっていることやら判然しません。
より遠くを目指し、より遠くを望もうとした人間が、近辺をないがしろにし、手元を見ることができなくなったとしたら、それは大いなる皮肉かもしれません。

距離と言えば、現代人はとかく他人との距離を気にしすぎる傾向にあります。
隣人や周囲の顔色をうかがい、場の雰囲気を過敏に察知し、自身の発言や振る舞いを他との調和の中へ器用に収めようとするたゆまぬ努力。
他人の領域に踏み込み過ぎることなく、また自身の領域を多く開け放たず、無愛想と愛想の間にある中立の笑顔を保ち、決して腹を割らず、しかし心を閉ざす姿勢は悟られないよう、たとえそれが幻想であっても誰にも快適であるべき距離を探り探りの交際は、その心労たるや、いっそ無人島にひとりきりの方がどれほど気楽かと思うほど。
近ければいいのか、遠いままがいいのか、つかず離れずの塩梅はどこにあるのか、まったくもって距離というものは厄介な代物なのかもしれません。

科学技術のおかげで通信や時間距離が大幅に縮んだといっても、地球上すべてのひとがその恩恵を受けられるわけではなく、そのせいというより、むしろこちらこそ恩恵という言葉がふさわしいくらいですが、昔から今に至るまで、原始的ですが適度な距離感覚を享受できているひとも多くいます。
一日の行動範囲は足で歩いて行けるところまで、遠くへ行きたい場合でもせいぜい馬などの助けを借りて行ける範囲。
用があれば面と向かって話をして、納得できなければ膝を突き合わせとことん話し合い、それでも気に入らなければ直接手を出すくらいの間近な間柄、これは物騒なようで案外と健全な人間関係かもしれません。
文明を受け入れなかった結果、ひととひとの距離も健全に保たれているのです。
こうした自然状態を頭の片隅にでも置けば、現代人もこれ以上距離を縮める必要はないはずと思われますが、人間の身体スケールに根差した生活範囲の形成に真っ向から反し、世にセレブリティなどと持ち上げられて喜んでいるひとの中には自家用飛行機などをこれ見よがしに手に入れて、ちょっとした移動にも度を越す手間と金を惜しまないという、まるで正気の沙汰ではない行動に出る連中もいます。
一分一秒の無駄を嫌い、他人との接触を断ち、世界を眼下にすっ飛ばし上流を気取る、そうしたセレブは下々の社会からしてみれば浮世離れどころではなく、完全にあの世の住人と言えるかもしれません。
過ぎたるは猶及ばざるが如しとはよく言ったものですが、及ばざるは猶過ぎたるに勝れりとは猶よく言ったものです。

市井人定数/プライベートジェット:0(単位・機)

tab#08

のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳ねの母は死にたまふなり―
誰もが国語の教科書で出会っているはずの、斎藤茂吉の有名な歌です。
玄鳥は「つばくらめ」、屋梁は「はり」、足乳ねは「たらちね」です。
この歌は近代短歌のひとつの頂点に君臨する素晴らしい作品とも考えられます。
時間とスペースの許す限りしみじみと感傷に浸りたいところですが、今回はとりあえず枕詞(ここでは「たらちねの」)に着目しています。
言わずと知れた、母にかかる言葉ですが、これはよく「垂乳根」と書かれます。
斎藤茂吉が「足乳ね」と表現したのには彼なりの理由もあるかと思います。
しかし細かい所に立ち入ると文学論になってしまいますので脇に置くとして、とにもかくにも枕詞って奥ゆかしくて素敵ですよねという話です。
一見するとまったく不要な存在にも思われ、しかし語の調子を気持ちよく整え、なにかしらの情緒を醸す役目も果たし、枕詞はかなり強い存在意義を持っています。
元の歌を勝手に改変してしまえば作者への失礼にあたりますが、たとえば…
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて床伏す母は死にたまふなり、などでは全然だめなことは一目瞭然かと思います。
もちろん代替させる言葉の選択に大きな責任があることは認めますが、これでもいくらかは枕詞の大切さを説明できているはずでしょう。
たとえ字を余らせようと、この場合やはり、足乳ねの母は足乳ねの母なのです。
話は逸れまして、おぼろな記憶によると「せろにあす」を「モンク」にかかる枕詞と指摘したのは作家の筒井康隆だったと思いますが、まったくの冗談でもない気がするくらい妙に納得させられて、これこそ枕詞の威力ではないかと感じ入りさえしたこともあります。

ちなみに、人間の睡眠にとって枕が果たす重要な役割をことさらここで強調する必要はないでしょう。
寝る時に使う枕は和歌に用いられる枕詞よりはるかに古い歴史を持っています。
枕詞を貶めるつもりはありませんが、枕の重要性は枕詞の比ではありません。
確かに、該当する和歌から枕詞を抜いてしまうと寸足らずで情緒もへったくれもない侘しいものになってしまいますが、ぐっすり寝ているひとの頭から枕を抜いてしまったらガクンとなって怒られてしまうのでもっと大変です。
枕は第二の心臓、とはよく言ったものです。
そんな言葉が実際にあるかどうかは知りませんが、あっても不思議ではない気がします。
世の中にはヘソ曲がりというか、天邪鬼というか、どう表現したら適切かわかりませんが、枕なんて使わないと言い出すひとがいることは承知しています。
人類が二足歩行を始めた瞬間からその寝床には枕が置かれた、という人類学の揺るぎない定説を俟つまでもなく、しかし人間には本能的に枕が必要なんです。
そんな学説は聞いたことがないというひともいるでしょうが、そういうひとを責めるつもりは毛頭ありません。
どこか遠い国の古代壁画には、人類の祖先らしき男性が、干した草木で編んだ低反発性の枕を大事そうに抱えた図なども描かれているという話です、とまで言ってしまうと冗談を通り越して嘘つき呼ばわりされかねませんので言わずにおきます。

睡眠におけるその質の追及が声高に主張されるようになって、もう随分と久しいかと思います。
なるほど睡眠は明日へつながる大切な行為ですし、働きづめの現代人が慢性的に疲れをため込んでいることは間違いありません。
とはいえ真に疲れているならば、そこそこの寝具と環境が整っていればぐっすり寝られるものと思われます。
睡眠に大事なのは質より量かもしれません。
さして意味のない夜更かしが睡眠時間を不足させている現実こそ重大です。
枕にしたって、その存在が重要なこと自体は確かなのですが、形状や質感などは大した問題ではなく、頭が床面からある程度浮いていればそれでいいのです。
そして実際のところ、枕は思いのほか耐久消費財です。
一度購入してしまうと、買い換えるのはなかなか難しいです。
あれ?思ったより後頭部にフィットしないなぁとか、この硬さは好みじゃなかったよとか、使い始めるとあれこれ不満も出てきますが、心配はありません、じきに体の方が枕に合うよう調整されていきます。
極端な話、三日三晩寝ずに仕事をして帰ってきた日には、カチカチの石の枕だって快適に感じるものでしょう。
住めば都、馴染めば母の膝の上、まあ枕なんて結局はそんなものです。

市井人定数/枕:11(単位・ケ)

単に数字を追うことは本考察の最終目的ではありません。
学術研究に有効性の高い市井人定数という特殊な観点から俯瞰することで、消費文化と消費社会を深く理解し、それがひいては現代を生きる人間の把握につながっていけば考察の意義も認められるに違いないという展望があります。
などと大それた物言いですが、せめて志だけは高く掲げたいという見栄のようなものと笑い納めてください。
そして、そもそもなぜ「市井人定数」なのかという本質的な話をしようかと思いましたが、いろいろ突き詰めてみると、別段の理由など端から持ち合わせていないことに考え至ってしまいましたのでやめておきます。

tab#07

家庭の味の代表といえば味噌汁です。
これに異論を唱えるひとはいないでしょう。
別格ともいえる味噌汁をあえて除外してみると、卵焼き、煮物、おにぎり辺りが次にくる定番として挙げられるでしょうか。
ここら辺りも大方の賛同は得られるはずです。
もちろん各家庭にはそれぞれ事情もありますので、中には昆布巻きこそというひとや、誕生日には必ず食べていた舌平目のムニエルが忘れられないと幼少期を懐かしむひともいて、しかしそうした少数派でも大抵は理解の目で見てもらえます。
ところが、ここにカレーライスを持ち出すと途端に事情が変わってきます。
カレーライスを家庭の味とは言語道断、真心への冒涜だ、と息を荒くするひとたちも少なからず出てくるのです。
あれを家庭の味と認めるかどうか、賛否の意見が真っ二つに割れるところです。
なるほど、せっかくならもう少し郷愁味を帯びた品を選んでもらいたいという思いもわからないでもないです。
しかし実際に、たとえばどこかでカレーを食べて家庭の味を思い出すということはありがちなことでもあります。
一般の家庭では、本格的にいくつもの香辛料を静かに煮込んで作るなどという手間のかかるようなことはせず、市販のルーを使ってちゃちゃっと済ませることが多いですので、家庭の味というよりむしろメーカーの味といった方が確かにすっきり納得いくのも事実ですが、それを言ってしまっては元も子もないのもまた事実です。

郷愁を誘うかどうかは置いておくとして、カレーを国民食の代表と認めることは誰にとって難しいものではないはずです。
いつの頃からか、カレーライスはこの国になくてはならない国民食の王様として絶対不動の地位に君臨しています。
などと言い出すと、ラーメン信奉者や牛丼愛好家からは待ったの声が上がりそうですが、そんな小さな声は無視して構わないでしょう。
ラーメンや牛丼のない大衆食堂は許せますが、カレーライスのない大衆食堂なんてありえません。
海の家にラーメンや牛丼がなくても気にもなりませんが、カレーライスのない海の家は海の家を名乗る資格がありません。
サービスエリアにカレーライスがなかったら高速道路を走る意味がありません。
小学校の調理実習がラーメンや牛丼だったら仮病を使う子どもが続出です。
キャンプに行ってラーメンや牛丼を作って食べていたら、それは大自然への反逆です。

学問の分野においても、この国は新しい発見に繋がるような基礎研究を苦手とし、どちらかというと応用研究を得意とする気質を持っていると評されます。
これはまさに、料理界におけるカレーライスが明々白々に証明している事実とぴったり合致します。
周知の通り、カレーのおおもとを発明したのはよその国です。
それがまた別の国を経由して、あるいはあれこれ遍歴もあったか知りませんが、どうにか辿り着いたものを得意の手練で独自色の強いひと皿に発展させました。
時に、この国の基礎研究における貧弱ぶりは批判の対象となることもありますが、こうしておいしいカレーライスを食べながら世界の食文化などに思いを馳せていると、地球はひとつという考えの下、それぞれが得手不得手を補いながら分担してうまくやっていけばもっともっと平和になるのカナなんて、お腹以上に心も満たされる気分です、げっぷ。

市井人定数/カレーライス:1777(単位・皿)

tab#06

表立って語られることは少ないですが、家のトイレというごく日常の空間ほど個人の嗜好や行動様式が色濃く反映される場所はないかもしれません。
それがたとえ短時間に限定される性質のものであれ、閉ざされた私的領域が約束されるという条件を考えてみれば、当然のこととも言えます。
あるいは、単なる個室という性質にとどまらず、どこか神聖にして不可侵な雰囲気を帯びる潜在性が公共感覚を忘れさせてしまう要因にもなるのでしょう。
しかし、いくらプライベートな時間を満喫すると意気込んだとしても、そこでなにから何まで好き勝手し放題というのは許されません。
朝、家族全員が慌ただしく準備に追われる時間帯に、個室に籠もりのんきに新聞を読みふけるお父さんに非難が集中するのは仕方ないことです。
一方、みんなが出払ったあと、おばあちゃんがそこでコックリコックリと居眠りするのは誰にも咎められません。
また、扉を開けたままというのはいただけません。
それがことに大の方であるならなおさら許されません。
せっかくの個室です、扉はきちんと閉めましょう。
そうしてプライバシーをしっかり確保した上でなら、そこで服を全部脱ぎ捨てようが、前を向こうがうしろを向こうが、難解な思想書に取り組もうがプリンを食べようが、まったくの自由です。

偉大な哲学はトイレから生まれる、世紀の発見はおよそ朝の用便に起源を遡る、などと言われますが、これには深く頷いてしまいます。
孤立したあの空間においては、日常と非日常は交錯し、現実と虚構は区別の意味を失い、理性と本能はその境界を曖昧にする。
家庭におけるトイレとは実に、普段の暮らしとは次元を異にするそうした世界を所与のものとして享受できるひとつの小宇宙であるかもしれません。
実際、遅刻のうまい言い訳を思いつくのはいつでも便座の上ですし、そもそもいつもの電車に間に合いそうにないなと悟るのも同じ便座の上です。
腕時計をにらみ軽い腹痛を感じながらそれでも平然といられるのはずばり、すべてを許し包み込んでくれる懐の深さゆえでしょう。
あるいは人は用を足すためにトイレに籠もるのではなく、世俗的な用務のために神聖な場所から外界へ出てこなければならない存在なのかもしれません。
今日の新しい言い訳も完璧に用意できたなら、ほっと安心してしまい、そんな素敵な考えまでも浮かんでしまうほどです。

当然のことですが、お尻の拭き方もまた各人の自由です。
この国において水流式洗浄便座がこれほど普及した現在でも、お尻につるっと水がかかるのを嫌うひともいます。
反対に、水で洗い流すことに慣れきってしまい、洗浄式ではない便座では用を足せなくなってしまったひともいるくらいです。
しかしどちらにしても、大を済ませたらお尻は拭きます。
中には洗いもせず拭きもせずに座を立つツワモノがいるかもしれませんが、そんなひとはこの社会においては例外中の例外、というかヘ◯タイです。
ここから個人差の話になりますが、お尻の拭き方を大別すると通常ふた通りに分類できます。
簡単に言えば、前からうしろへ拭くか、うしろから前へ拭くか、どちらかです。
昔のギャグ漫画に、左から右へ拭くという、お尻が左右ではなく前後に割れているらしき人物の話がありましたが、これまたきっとヘ◯ンタイに違いありません。
とにかく、一般的にお尻は前からかうしろからかのどちらかで拭きます。
そして、前後どちらから拭こうが使うのはトイレットペーパーです。
まさか、お尻は手で拭くものだと主張するツワモノというかヘ◯ンタイなひとはいないですよね?
ロール式のトイレットペーパーは、人類史上最も偉大な発明ベスト300には入る代物でしょう。
毎日使う物なのでつい忘れがちになりますが、限りある資源を材料としていることもありますし、いつも感謝の気持ちを忘れずにいたいですね。

市井人定数/トイレットペーパー:2021(単位・ロール)

tab#05

一銭を笑う者は一銭に泣くと言います。
今の時代なら、一円を笑う者は…と言い換えられます。
一円の価値それ自体を軽視するつもりは毛頭ありませんが、財布に溜まる多量の一円玉を時に煩わしく感じる気持ちは否定できません。
スーパーで味噌と大根を買ってレジに並び、384円也と言われて財布の中を見ると一万円札の他に383円しか入っていない時、この上ない絶望感を抱くと同時に、なんだか一円に笑われた気にもなります。
もしかすると無意識の内に心のどこかで一円の存在を笑っていたのではないかと、あるいは要らぬ反省などもしてしまいます。

油断すると増えていく一方の小銭たちは、一円玉に限らず、もうこうなったらブタの貯金箱に入れるしかありません。
もちろんブタである必要はないですが、たとえばワニやキリンだと投入した硬貨がどこかで詰まってしまいそうで宜しくなく、他に選ぶとするならフグやペリカン辺りが無難でしょう。
そして、割って壊さなければ絶対にお金が取り出せないような代物はなかなか手に入りませんので、あとのことを考えて変な杞憂に苦しむ必要もありません。
理性的に考えても、そして経験則からしても、裏にフタのついていない貯金箱なんて売っていても買う勇気のある人なんてまずいません。
これを言ってしまえば身も蓋もありませんが、貯金箱なんてそもそもお金を貯める為の箱などではなく、所詮は単なる一時保管箱に過ぎません。
上からお金を入れて、ある程度まとまったら下から取り出す、そういうすっとぼけた装置です。

そうは言っても、建前上あくまで貯金箱なわけですから、ごく稀にお金が貯まることもあります。
そんな時はどこか気も大きくなり、底蓋の存在など堂々と無視して、必要もないのに本体をカナヅチで割っちゃったりします。
では、次に新しい貯金箱を買い直すかというと、決してそんな馬鹿なことはしません。
手のひらに乗るくらいのブタさんを一杯にするのにどれだけの辛抱をしたことかと考えれば、これからはマメに小銭を使っていこうと決意するのです。
よくよく考えれば、貯金箱なんてものは不思議な存在です。
邪魔になった小銭をブタの体へ放り込むような人はなにかにつけて我慢が足らないのですから、貯金箱を本来の目的に適うよう使うことなど端から無理なわけで。
一方、コツコツと計画的にお金を貯めるような倹約家は、日々の買い物でも小銭をぞんざいに扱いません。
つまり、自発的にお金を貯められる人には貯金箱など無用の長物に過ぎず、お金を貯められない人にとって貯金箱はまったく正反対の意味合いにおいて無用の長物というわけなのです。

市井人定数/貯金箱:4(単位・個)

tab#04

都市部と地方との地域格差が問題とされるようになって久しいです。
所得、医療、行政サービス、インフラ、情報など、日々の生活に密着する場面で格差は顕著に見られます。
そしてその格差は拡がっていく一方で、縮まる気配はありません。
確かに格差は大きな問題ですが、格差という視点だけで都市と地方の優劣を語ることはできません。
都市部では人口という数の優位に立つがゆえの利便性に満ちていて、人はその魅力に引きつけられます。
しかし地方には地方にしかない魅力もあり、近年になって地方への積極的移住という新しい選択肢が見直されるようにもなってきています。

田舎と違い、都会はなんといっても世知辛いです。
外を歩けばすぐに誰かと肩がぶつかるほどですが、行く人にたとえば道を尋ねたとしても応えてくれないことは日常です。
バスはバス停にしか止まってくれません。
ふと買い物を思い出し、デパートの前で止まってもらおうと運転手さんに声を掛けようものなら、バスはタクシーじゃないんだ!と叱られるそうです。
地方はすべてが平穏です。
人との交流は温かく、近隣どうし家族のようなつき合いもできます。
醤油が切れたら隣に借りにいくというのは古いジョークなどではなく、家から一番近いスーパーが車を飛ばして45分という立地では至極当たり前の行動です。
都会の人なら、切れる前に買っておけと言いたいところでしょうが、そもそも人間がすべて悠長にできていて、たとえ個々人の持ち物だとしても共同所有意識も実に強いのです。
こうしたことを村社会の慣れ合いやしがらみといって嫌う都会人も多いでしょうが、こういうものは一度身に染みてしまえばかえって気楽なものなのですが。

雨は田舎でも都会でも平等に降ります。
しかし都会に暮らせば傘の出番は比較的少なくなります。
これはまさにインフラのおかげです。
バス停には台風でも飛ばされない頑丈なひさしがありますし、商店街にはアーケードがあり、中心部に行けば地下街や地下鉄がありますから、雨だけでなく日差しや風や騒音・粉塵も防ぐことができます。
ビルからビルを渡り歩き、季節の移ろいさえも肌に感じる暇のないほど快適に暮らせます。
そんな都会暮らしをしていればさぞかし傘を買う場面も少なかろうと想像できるところですが、実情はそうでもないらしいのです。
都会では、店先の傘立てに置いておく傘はしょっちゅう誰かに持っていかれてしまいます。
田舎とは比較にならないほど収入面でも恵まれている環境ですから、まさか傘が盗まれるとは考えられません。
つまり、意外なところで田舎風の共同所有意識が根づいているのでしょう。
それなので結果的に、都会人の傘の購入率は田舎人のそれと一切変わりません。
雨をしのぐインフラが完璧に整っているのに、妙な共同所有意識があるせいで、ほとんど出番のないようなしかし寿命の短い雨傘を買い続けなければならない都会暮らしとは、世の中なんともうまくはいかないものです。

市井人定数/雨傘:51(単位・本)

tab#03

男子が最初にヒゲを剃るのは十二三歳、中学一年の夏です。
ヒゲと言っても、まだ鼻の下にうっすらと生え始めた産毛みたいなものですが、きっかけは女子とのキスを妄想して覗き込む鏡です。
それまでにも床屋でシャボンを塗られ幾度もかみそりを当てられてはいるんですが、その様子をまじまじと観察して手入れの必要性を痛感するのは夏休みのちょうど一週間前です。
五本で百数十円の安全かみそりを購入すると、中学二年の秋まで持ちます。
その後は急に六週間に一本の消費ペースに変わり(終わりの十日間は刃が鈍くなって肌が痛いですが)、高校へ入学すると同時に週一本のペースに大人びます。
成人するか社会人になるかのタイミングで次の色気が出ます。
週一本の消費ペースはほぼ崩れませんが、二枚刃や三枚刃、替え刃式、スキンケア機能つき等、様々なバリエーションを試しながら恋をして成長し、男を磨くことに余念はありません。

そしてそれは突然です。
この先もう永久に変わることはないと信じて疑わなかった現実が、ある日予告もなしに転回します。
朝起きてなにかもやもやするところがあって、たまの一日くらいヒゲ剃りをサボったところでバチは当たるまいとそのまま日を過ごし、夕方になって頬を撫でてみて、予想していた硬いヒゲの当たりを指先に感じません。
まさかと思い翌日も敢えてヒゲ剃りをせず、夕刻に改めて衝撃を受けるのです。
老眼鏡で鏡を覗き込むと、以前の密度もない、張りもない、毛髪と同様に色褪せて生命力を感じさせないヒゲがまばらにあるだけなのです。
それは現役を退いて七年経ったある冬の日曜日のことです。
これも「老い」かと、人生で幾度目かの悟りを得ます。

老いて赤子にかえる。
必ずしも悲しむべきことではありません。
人生に長く身を置けば誰もが計り知れないほど多くのものを背負います。
生きる上では必要でも、生を終わらせる瞬間にはほとんどすべてのものは必要でなくなります。
老いは背負い過ぎた荷物をひとつずつ捨てていく行為です。
最後の瞬間に向けてただ身を軽くするだけのことです。
本当の最後には、これまで積み重ねてきた仕合わせだけを胸の奥に抱いてそっと眠ることになります。

市井人定数/使い捨てかみそり:2803(単位・本)

tab#02

キャンプ場で大学生らしき若者男女がバーベキューを楽しんでいます。
周りには多くの家族連れも見えます。
高原は初夏の爽やかな空気に包まれ、皆とても満足そうに休日を過ごしています。まるでキャンプ場の宣伝広告に描いてあるような風景です。
ところがハプニングはそうした時に起こります。
ひとりの女子が隣接のキャンプサイトにも響くほどの声を上げました。
「なにこれー。不良品よー!?」
すると仲間たちは一斉に彼女の元に集まり、その手元を覗き込みました。
目を丸くしたまま硬直してしまった女の子の手には桃の缶詰がひとつ握られているのでした。

つまり、それは現代では当然の大前提とされている簡易開口式の缶詰ではなく、前時代の絶対標準であった缶切り開口式の代物だったということです。
隣のサイトに居合わせた家族の父親が一体何事かと遠目ながらに様子を窺っていましたが、しばらくして事情を飲み込んだ彼の胸中を「まさか」の三文字がよぎりました。
思いもよらぬ衝撃でしたが、少し考え直して、今やありうる話なのかもしれないと唸ってしまったのでした。

さて若者というのは実に頼もしい存在です。
グループの中のある男子がとっさに解決策を見出しました。
テントロープの先端を地面に固定させる時に使用する鉄製のペグを使い缶蓋をこじ開けるアイデアを思いついたのです。
こうなると若者の団結力は半端ではありません。
不良品を掴まされた憤慨などはもうそっちのけ、あるいは泣いているのか喜んでいるのか判別できない奇声を上げながら、男女全員キャッキャとはしゃぎ、替わるがわるで缶詰の蓋をがんがん鳴らして小突き続けました。
若者の体力低下が懸念されるようになって久しいですが、これは事実です。
ものの五分としない内に全員があっさりとペグを投げ出しました。
結果は、親指の先ほどの穴が蓋の隅に二か所開いただけです。

それで最終的にはその穴から中のシロップだけをちょろちょろと注ぎ出し、ひとつのコップを全員で回し飲みです。
せっかくの桃缶が不良品だったことなどとうに忘れて、しかし誰もが気持ちのいい笑顔になっていました。
不良品を見つけた女の子が最後に言いました。
「こんなシロップでも、ひと汗かいた後は格別よねアハハ」
そして一同つられて「アハハハハ」
腐りゆく運命にある中身の桃たちのことはさて置いて、かの若者たちはチームワークで成し遂げた先に見えるなにかを手に入れたようです。

市井人定数[ver.21st]/缶切り:0(単位・本)
市井人定数[ver.20th]/缶切り:8(単位・本)

tab#01

農作物としての大豆の栽培は、日本においては縄文時代までその歴史を遡ることができるそうです。
なるほど大豆は食用として世界一優秀な植物かもしれません。
栄養価の面では言うことないでしょうし、食用加工の途も多彩です。
もちろん単純な煮豆もいいですが、ぱっと思いつくだけでも豆腐・納豆・きな粉・豆乳・醤油・味噌など豊富なバリエーションがあります。
大豆油としての利用も忘れてはいけないでしょう。
そして枝豆やもやしだって大豆です。節分の豆まきにも大豆を使います。
日本人が大豆大好きっこだという事実に疑う余地はなさそうです。
しかし残念な話ですが、日本は大豆の大部分を輸入に頼っています。
世界市場における価格の問題が一番大きいのでしょう。
国土面積の問題も関係するかもしれません。
主食である米に次いで麦とともに日本人に親しまれている農作物だけに、たとえば相場の高騰で日常の食生活へ影響が出ない程度にまで自給率を引き上げたいところです。

相場といえば「あずき相場だ」と反応する人は、それで大体の年齢が知れてしまいます。
かつては商品先物取引の代名詞のような扱いだったらしいですが、今ではあずきの取引熱も相対的には少しは冷めてきているみたいです。
とはいえ、市場を観察すればまだまだ血気盛んな投機筋の方々が大勢いらっしゃる様子です。
それにしても、あずきに限ったことではないですが、食の対象である穀物が取引所を経由して先物として売買されるという現実が果たして健全なのかどうか、時々強く疑問に思うことがあります。
しかし過去を振り返れば意外に長い歴史を持っているわけで、これも誰かの見えざる手による自然摂理的な成り行きなのか、欲望こそが自己意識の本質であるとされる人間の性分なのか、考え始めると頭の中がぐるぐると周り出し、いつまでも止まらなくなりそうです。

朝の食卓には豆腐です。
これはどの家庭でも同じです。
言わば全国統一ルールです。
外国の方には驚きかもしれませんが、日本人にとって大豆といえばすなはち豆腐を指します。
ただ、朝の豆腐といっても当然いつもが冷や奴というわけではありません。
味噌汁の中に浮かぶ具であったり、昨晩の残り物である冷えた麻婆豆腐であったり、ひじきの煮物に見え隠れする存在だったり、冬には湯豆腐だったり、その姿形は様々です。
朝食なんて抜いてるとか、トーストにハムエッグとコーヒーとか言う人たちは全国ルールを知らないということなので、今ここで覚えてください。
それほど顕著な差は見られませんが、豆腐も好き嫌いの対象にはなります。
しかし豆腐好きを公言する人も、そんなに好きではないという人も、これが実に不思議な現象なのですが、年間を通じ押しなべて口にする量にまったく差が出てこないのです。
これは権威があるという調査機関により毎年のように確かめられている事実らしく、驚きと称賛の意を込めて「白いダイヤの奇跡」と称する人もいるという話です。
そして冬ならば夜にはやはり鍋かすき焼きでしょう。
もちろん主役は豆腐です。
いいや主役は肉だんごかバラ肉に決まっていると主張する人にとっても、本人こそ気づいていませんが、実は肉などは準主役扱いなのです。
肉だんごのない鍋やバラ肉のないすき焼きはまだその体を保ちますが、豆腐の入っていないものなどは金輪際鍋やすき焼きとは呼べないことが明らかです。
こうしてざっと見るだけでも、豆腐が普遍で不変の輝きをもった食べ物であることが理解、納得されると思います。
日本人なら誰もが豆腐に足を向けては寝られないのです。
ちなみに、油揚げ・厚揚げ・がんもどき・高野豆腐なども一往豆腐の仲間かもしれませんが、真の意味での豆腐とは違いますからものの数には入れられません。

市井人定数/豆腐:3050(単位・丁)