『物数寄書房』
ものの本企画
ふくらみ文庫/2014

重版の途を絶たれてしまった書物たち。それがすなはち読むに値しないというはずもなく、できる限り有益な形で生き続けてほしいです。そんな書物を集めてみたら素敵なお店が出来上がるかもしれません。





物数寄書房・店主

居眠りが大好き。普段、店番をしながら犬のようによく寝ています。
時々思い出したように書棚の整理を行い、思い出したように営業日誌をつけています。

店子さん(仮名)・物数寄書房の二階に居候する大学生

新刊、古書を問わず、本にはほとんど興味を持っていない。占いは好き。
暇な時には店主の行動を観察したり。しかし店番のアルバイトは頑なに断り続けている。

「わ」の棚

『ずっこけ魔女がんばる』
メアリー・ウェルフェア
佑学社/1982

がんばれ。漠然とした不安感、その不安からくる恐怖、集団意識の綻びから発生する他者への疎外欲求、さらに謂われの定かではない人間の嗜虐性向、魔女狩りの端緒はどこにでも潜んでいますので油断しないでね。

『三丁目が戦争です』
筒井康隆 作
永井豪 絵
講談社/1971

三丁目はあなたのすぐ隣です。隣で起こることは自分たちの町でも起こることです。決して対岸の火事としてはいけないのです。どうしてか真面目なコメントしか出ません。

『エロス的文明』
H・マルクーゼ
紀伊国屋書店/1958

これはエロス的ではない文明に対比しての物言いと思われますが、エロスを抑圧する衝動もまたエロスの本質だという立場を取ってみるならば、あまりに大っぴらなエロス的文明はそこそこの官能しか反応しません。

『放屁抄』
安岡章太郎
岩波書店/1979

あばたもえくぼと言いますし、放屁はお尻の吐息です、ホントのところはシリません。大好きなあの子の吐息なら胸いっぱいに吸い込んでもいいほど。などと言い出せばもはや正常な領域を逸脱した嗜好の世界です。

『女は嘘つきで詐欺師だ』
アンドリュー・トビアス
パシフィカ/1977

あくまでひとつの仮説としてそういう捉え方もある、ということにしておきましょう。私は開け広げにそこまで言い切れません。いくら内心で強くそう思っていたとしても…いえ全然思っていません、ごめんなさい。

『恐怖の結婚』
笹沢左保
祥伝社/1997

その心情は理解できなくもないですが、開け広げに女性をそこまで怖がるといいことはないです経験上。なんならもう結婚なんてやめておくという手もあります。後悔は先に立たずと言いますから、これホントの話。

「を」の棚

『覗くひと』
アラン・ロブグリエ
冬樹社/1966

出歯亀のお話です、ではないです。覗くひとがいれば、覗かれるひとがいるのは道理ですが、覗くひとを書く立場から覗くひとがいて、そうして書かれたものを読む立場から覗くひともいて、この世は覗き天国です。

『服を着たままお風呂に入ろう』
飯島郁子
文芸社ビジュアルアート/2008

基本、いけない行為です。ただ、訓練されていないひとが服を着たまま川や海に入ればそれは致命的な事故にもつながりますが、この場合、同時に衣類の洗濯も兼ねますのでエコロジーでエコノミーかもしれません。

『人間には3種類ある』
歌丸光四郎
中経出版/1979

つまり、数を数えられる人間と、数えられない人間だ、みたいなうまいジョークではありません。筋骨型、神経型、肥満型だそうです。筋骨と肥満は理解できますが、神経型って。無理な数合わせとしか思えません。

『宇宙人に会った』
矢追純一
広済堂出版/1979

それはよかった、無事でなにより。ですけど、せっかく会ったのに証拠なり何なりを残さない詰めの甘さ。あるいは宇宙人に口止めされてるとしたら、会った事実を公表してしまった以上、彼の身の安全が心配です。

『有閑哲学』
タゴール
東京朝日新聞/1929

仕事、家事、育児、介護などなど、日常に忙しくしている一般的人々はそもそも悠長に哲学的問題などに構ってはいられません。哲学なんてのは浮世離れしたいわゆるヒマ人が自分たちのために作り出した道楽です。

『最強麻雀オカルト戦法』
日本プロ麻雀協会
毎日コミュニケーションズ/2003

プロ協会がオカルトて。ゆえに麻雀は現在の地位に甘んじるしかないのかなと思われます。けれど将棋やチェスなどとは違い不確定要素が大いに介入する遊戯である以上、そう言い切ってしまう潔さが必要なのかも。

「る」の棚

『忍者往来』
江崎俊平
東京文芸社/1960

世に交わらず姿を忍び、目にも止まらぬ速さ、忍者と言えど時にそうでもないみたい。非番の日には気の合う仲間と連れ立って下町をそぞろ歩きもしちゃいます。彼らも人間ですので往来を往来して、忍者オーライ。

『パンツの真実』
アングル特別編集部 編
主婦と生活社/1986

あのペラペラの一枚にまだ発見されていない事実があったとしたら驚きです。どちらかと言えばパンツそのものよりむしろ、パンチーの奥の奥に隠されている真実(アチラ)のほうを覗き見たいこの頃です、ぐふふ。

『日本人は優秀である』
樋口清之
ごま書房/1997

まさかのレイシズム全開かと思いきや、サブタイトルに梅干し博士の日本再発見講座とあればそれも杞憂なのでしょう。謙遜の美学を主張するのではありませんが、慎ましさの文化も大事にしていきたいと思います。

『入手困難』
暗黒通信団
暗黒通信団/2014

タイトルをつける段階でそれがわかっているなら、前もって容易にしておいてください。ひとの購買心理につけ込んで、こういうのは通信販売の限定数商法みたいなものでしょうか。実際の在庫は知りませんけれど。

『はれんち!スヌーピー』
チャールズ・シュルツ
鶴書房/1970

女子の前で局部露出でもしたのか、恥を知れスヌーピー!と思ったけれどアレは最初から服を着てなかったかしら、犬だし。となるとアレが犯すハレンチ行為といえば、と考え出したらすべてが不愉快になりました。

『どん底の母』
J・ウオルシュ
蒼樹社/1956

あまり目の当たりにしたい光景ではありません。こういう場合、父親の方は家にお金を入れることなく放蕩の限りを尽くすような馬鹿者タイプで、余計に目も当てられず。ズンドコの母くらいだと救われるのですが。

「ぬ」の棚

『人類ヒトデ説』
六本木伸一
地球社/1998

これは一部の知識人の間にはかなり有力な説として浸透しているかと思います。仮に人類がヒトデではない場合を想定してみれば、やはりそれはさすがに肯定し難く、この説がいかに真実に近いかわかると思います。

『人魚のくつ』
立原エリカ
思潮社/1972

人魚に無理やり靴を履かせようとすれば、それはある種のハラスメントです。さらに下着を履かせようなどとみだらな考えを持つ者は論外です。言葉の印象は不思議なもので、相手が半魚人なら許せるのですけどね。

『紙の爆弾』
出久根達郎
文藝春秋/2000

事実、恐ろしいです。言葉は時に暴力を内在させます。暴力それ自体を含まなくとも、言葉が暴力を誘発させることは思うより容易です。同時に、言葉は暴力を止める力も持っています。ふざけたオチはありません。

『やけくそ・ふまじめ・ちゃらんぽらん』
鷲見康夫
文芸社/2000

なげやり、でたらめ、ろくでなしってなもんですね。あるいは、へべれけ、ちんぴら、おちこぼれ。さらに、よいどれ、ごろつき、ひとでなし。これ以上やると気持ちがどんよりしてきますのでやめておきましょう。

『モグラが三千あつまって』
武井博 著
西村達馬 え
実業之日本社/1975

なにを企んでいるのでしょう。モグラのことを考えるといつも心配になるのですが、あんまり穴を掘り過ぎると地盤沈下を起こさないのでしょうか。しかも今回は三千って。

『ベッドでのむ牛乳入り珈琲』
澁澤敬一
暮らしの手帖社/1952

いやに粋でオシャンな光景を空想させるタイトルと思ったらフランス・パリでの生活記録です。きっと奥様と一緒の時間なのでしょうね。風呂上がりにひとり飲む日本のコーヒー牛乳とはひと味もふた味も違います。

「り」の棚

『男の半分は女』
張賢亮
二見書房/1986

なにも間違っていません。半分どころか全部と言っていいくらい。妻や恋人に頭の上がらない男性は世に多いと思いますが、たとえ上がりそうになっても上げてはいけません。女を立てれば男も立ちます(イヤン)。

『子供の場所』
草森紳一
晶文社/1975

子どもの居場所が消えたのは今に始まったことではないのですね。朝、出勤したら、まずは陽の当たる窓際で新聞を読み切り、しばらく給湯室で時間を潰し、午後からはトイレに籠もり、大人の居場所もないのです。

『たんじょう日にはデブがまん』
岡田ゆたか 作
宮崎耕平 絵
草炎社/1988

やせ我慢ならぬデブ我慢ということか。あるいはデブは誕生日ケーキも我慢しろというデブシャルハラスメント。いづれにしても、デブという呼称にまず好意はありません。

『貧乏研究』
B・S・ラウントリイ
ダイヤモンド社/1959

基本的に最貧困層が自分たちの生活を研究するはずなどなく、名望ある富裕層に研究対象とされるわけですが、生活に土足で踏み込んでくる輩とどこでどう折り合いをつけるかがポイントです。やっぱり金ですカネ?

『たべたらうんち』
山岡寛人 写真・文
ポプラ社/1998

まさか、カレーと思って口にしたら、なんて話ではないですよねさすがに、マルキ・ド・サドじゃないんですから。いえ、サドだったら知ってて食べるクチですね、口だけに。タイトル以上に品がなくなっています。

『宇宙知性チョッキー』
ジョン・ウインダム
早川書房/1970

言い換えればコアラボーイコッキィです。コッキィといえば赤坂小町です。誰にでも消したい過去はあるものですが、小町もいつの間にプリンセスになってブレイクすれば、出会えてラッキー明日もハッピーですね。

「ち」の棚

『くさってもライカ』
田中長徳
アイピーシー/1994

ライカを腐らせてはいけません。腐っても鯛なんてのは昔のひとが見栄を張って作り上げた嘘っぱちで、腐ったら捨てるしかない鯛。あるいは腐ってふて腐れる鯛がせいぜいでしょう。私は新鮮なイワシが好物です。

『ニューオリンズの白デブ吸血鬼』
アンドルー・フォックス
アンドリュース・プレス/2004

普通に考えれば珍種であることは間違いないのですが、ストレートに作者の悪意を感じます。いや、実は続編まで出ている事実を鑑みれば、これは現代病とも言える肥満に対する愛情と言った方がよいのでしょうか。

『人間操作の時代』
ヴァンス・パッカード
プレジデント社/1978

情報操作、大衆監視、思想介入など、ひとがひとを操ろうと試みることに対してはとかく悪い印象が強調されがちです。しかし、操作されたい症候群などという概念を導入してみると、まったく別の見方も可能です。

『死を売る会社』
岡倉古志郎
青春出版社/1966

買うひとがいて売るひとがいる。商売の原則でもあります。しかし、売れたらなにをしてもよいわけではありません。こんなおどろおどろしいタイトルを、よりによって青春出版なんて爽やかな名前で売るなんて。

『裸体について』
亀山巌
作家社/1968

裸体については、くどくど語られるより明け透けに見せてもらうのが一番です、イヒヒ。実は出歯亀という蔑称はこの亀山さんがモデルだとか、なんて嘘を言えば怒られますね。名古屋が誇る、歴とした文化人です。

『嫌ならやめとけ』
レイモンド・フェダマン
水声社/1999

はーい!ってな具合にすべてが片づけば世の中楽チンなんですけどね。嫌でもやらなければならないことだらけが世の常です。嫌でもやっておけ、ハイ!求められているのは不平不満を口にしない従順な精神です。

時には頭を使うふりでも

インターネットの普及のおかげで一億総発言者とも言えるようになったこの時代。
出版物としての書物の相対的価値は下がりつつあるのでしょうか、大きなうねりを感じます。

「と」の棚

『星からの怪人』
ポレシチューク
偕成社/1962

かつてアメリカとソ連は宇宙開発を巡っても静かな戦いを繰り広げていました。これは、アメリカの傍若無人ぶりを批判するためにSFの体を装って書かれた風刺小説です、というのは真っ赤に染められた嘘です。

『愛してポーポー』
ジャッキー・チェン
集英社/1984

大砲と書いてポーポーと読むらしいです。編集者が勝手につけたタイトルだとは思いますが、真意が伝わらないことは往々にしてあります。もはや名物でもある彼の失言の数々、真意なんてものはないのでしょうね。

『ぐい呑みのすべて』
光芸出版編集部・編
光芸出版/1977

すべてと言い切る見栄、これは呑兵衛の特徴です。家の金はすべて俺様が握っているんだと言って安酒場に毎晩繰り出すひとは、家に帰れば例外なく奥さんの尻に敷かれコキ使われてます。大目に見てあげましょう。

『羨こけし こけしの微笑・こけしの追求』
深沢要
未来社/1962

いい大人が郷土玩具にうつつを抜かした集大成です。などと冷やかせば、そのいい大人たちからこけしで頭をぶたれそうです。こけしの使い方、それでは間違ってますけど。

『現代悪女教室』
明石和子
東西五月社/1959

悪女と呼ばれるのと、悪女になるのとでは天と地ほどの差があります。みずから悪女になりたがるひとは大抵、同性からも性悪女と陰口を叩かれるタイプです。と、全力で悪女を目指しているひとが言ってました。

『現代野郎入門 これがプレイ・ボーイだ!』
野坂昭如
久保書店/1962

プレイボーイを吹聴することほど真のプレイボーイから遠く離れた態度はありません。しかし、なにを隠そう、昔の私、ひともうらやむプレイボーイでした。いや本当の話。

そろそろお金のほうも回ってほしい

せっかく収集した絶版本をこうして店頭に並べて売っているのにはワケがあります。
なんといっても存外に儲かりますからヒヒヒ…ではなく、本も天下の回りものと考えたいのです。

「へ」の棚

『恥部の思想』
花田清輝
講談社/1965

タイトルを見て悶々となってしまったあなた。それは恥ずべきことではありません。そんなまっとうな反応を隠そうとするほうがどこか歪んでいるのです。恥部は隠さない、これを社会全般の鉄則にしたいものです。

『陰茎人』
山田風太郎
東京文芸社/1954

タイトルを見て胸の高鳴りを隠せないあなた。それは恥ずべきことではありません。そんなまっとうな反応を恥とする文化こそ間違ったものなのです。象徴を目にしたら飛びつく、そんな自然状態の社会は理想です。

『職業「泥棒」年収3000万円 決してマネをしないでください』
鳥山はじめ
双葉社/2010

新手のインチキ商法かな。この風呂敷を買えばあなたも立派な泥棒になれます的な。マネするなと言われマネしてしまう人の心理をつくとは、さすが心得ていらっしゃる。

『にんにくの神秘』
小湊潔
叢文社/1972

あの小さな粒の中にまだなにか隠されていましたか。もういい加減に科学的にも解明し尽くされたかと思いがちですが。ちなみに、この本の続編が『にんにく新発見』とな。…なんと、まだなにか発見しましたか!

『卓球・勉強・卓球』
荻村伊智朗
岩波書店/1986

妥当な組み合わせです。野球・酒・野球。サッカー・女・サッカー。政治・金・政治。そうじゃなくては却って不自然ですもの。という偏見が一番よくないのですが、この説得力を打ち破る自信は全然ありません。

『伏字文学事典 ××を楽しむ本』
奥成達、他
住宅新報社/1977

伏せ字を伏せられたまま読む行為。それは隠す美学の理解です。あるいは不完全の中に存在する美への意識。それとも単純な反骨精神かもしれません。チョメチョメをチョメチョメして…アん、もうチョメチョメっ!

どちらでもいい問題

学校から帰ると、カウンターの中で大家さんがなにやらブツブツ独り言をつぶやいていた。
うちは古本屋ではなく、あくまで古書店という呼び名にこだわりたい…だそうです。

「ほ」の棚

『序文つき序文集』
ホルヘ・ルイス・ボルヘス
国書刊行会/2001

絵のない絵本みたいな感じです。いえ逆です。序文だけ読まされる身にもなってと文句のひとつも言いたいですが、趣味に合わない作品の本文にまで目を通す手間を省いてくれることを考えると、功罪相半ばします。

『ハゲ・デブ殺人事件』
つかこうへい
角川書店/1984

ザ・踏んだり蹴ったり。世の中は常に不公平に満ちています。世界のいたるところ、持つ者と持たざる者とで無益に対立しています。ハゲでデブだからといって黙っている必要はありません。いざ、声を上げよ!

『ジャガイモ伝播考』
ベルトルト・ラウファー
博品社/1994

ジャガイモは世界を救います。イモ類は口の中がモサモサになって喉が渇くからイヤなどと我がままを言ってはいけません。近い将来、彼らは大気圏を飛び出して立派な宇宙食になるのは間違いないのですから。

『学歴社会 新しい文明病』
R.P.ドーア
岩波書店/1978

タイトルの中にすでに答えがあるのかもしれません。もう何十年も議論されていて、結論の糸口が一向に見えてこない問題のひとつです。この病、高度な文明化を推し進める道を選択した私たちの宿命でしょうか。

『バナールな現象』
奥泉光
集英社/1994

こんなのに限って、バナールと謳いつつ全然バナールじゃなかったりして。でも深読みすれば、そんな非バナール的日常こそが実はバナールではないかと考えさせられ。よし、まずはバナールの意味を調べてみます。

『太陽をとらえる 目で見る天文ブックス』
小野実、他
地人書館/1971

いけません。危険です。絶対にやめてください。え、そういうことではない?いや、それならいいんですが。今の時代、そんな根性論や精神論は流行りませんものね。

居眠りだって別腹です

昼間そんなに寝ていて夜は寝られるんですか、と時々お客さんに聞かれます。
私は食べ放題の焼き肉で一杯やったあと、口直しに豚骨ラーメンを食べに行きます。

「に」の棚

『菫色のANUS』
稲垣足穂
芸術生活社/1972

どこから手をつけましょう。まず確認しておかなければならないことは、菫色だろうがなんだろうが少なくとも人間にとって例の穴はあくまでも排泄のためにある開口部であり、生殖器官ではないという事実です。

「平成3年5月2日,後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士,並びに,」
石黒達昌
福武書店/1994

ただならぬ事態をただならぬ緊張で伝える場合にありがちなことは、一番肝心の内容がスッポリ抜け落ち相手を混乱させてしまう失敗です。チチ、スグカエレ、ハハ。え?

『マンガ日本経済入門 合本』
石ノ森章太郎
日本経済新聞社/1990

素直に受け取ればマンガで読む日本経済入門でしょうが、発行年がバブル経済の絶頂期に重なる事実から、この上なく乱痴気に浮かれていた時代の、コミカルな日本あぶく経済の入門書と読み解くこともできます。

『帰れ、カリガリ博士』
ドナルド・バーセルミ
国書刊行会/1980

ここで言う「帰れ」が「シェーンカムバック」の「帰れ」なのか「火星人ゴーホーム」の「帰れ」なのか、それによって博士の今後の予定も違ってくるでしょうが、そもそもカリガリ博士って一体誰ですか?

『ずいひつ 樹に千びきの毛蟲』
吉行淳之介
潮出版社/1973

ぎゃあ!です。虫ではなく、蟲の密度にまたまたぎゃあ!です。が、よくよく考えてみるに、人の両手で抱えられない程度の幹を持った大木なら、実際にそれどころじゃない数が潜んでいる気もしますよね。ぎゃあ!

『遅れたレポート』
ムニャチコ
勁草書房/1966

は、まず受理されません。大学三年次への進級がかかる大切なレポート課題。前夜、意中の後輩との初めてのデートでハメを外していたため提出をすっかり忘れてしまっても、そこに情状酌量の余地はないそうです。

「現代人の活字離れ」問題

実際、私は大学で使っている教科書以外、一年を通して本をほとんど読みません。
新刊、古書、かつてないほど世間に本があふれているというのに皮肉なものです、どうしましょう。

「は」の棚

『生きた貨幣』
ピエール・クロソウスキー 著
ピエール・ズッカ 写真
青土社/2000

タンス預金。日常で浮いたお金をこっそり貯め込んでおいたり、表に出せないような裏のお金をひっそり隠しておいたり、どちらにしても健全ではない状態です。

『偶然の数学』
武隈良一
河出書房新社/1965

テスト中に鉛筆を転がして答えを得るあの技、鉛筆が使われなくなって姿を消してしまいました。思い出すに、勝率はゆうに7割を越えていた気がします。これはもはや決定論を支持できるほどの実績でもあります。

『蕎麦ときしめん』
清水義範
講談社/1986

伝え聞くところによると名古屋人にとってきしめんは麺類最強らしいです。二番手は味噌煮込みうどんだそうで、強いて三番手を挙げるならあんかけパスタということです。※異論や批判は一切受けつけていません。

『金儲けがすべてでいいのか グローバリズムの正体』
ノーム・チョムスキー
文藝春秋/2002

と、正面切ってチョムスキーさんに言われるとドギマギしてしまいます。しかしイエス!ともノー!とも決められない優柔不断な態度もピシャリと叱られてしまいそうです。

『赤き死の假面』
エドガー・アラン・ポー
江戸川亂歩 譯
藍峯舎/2013

エドガー・アラン・ポーの江戸川乱歩訳。猟奇文学マニア以外にはほぼどうでもいい組み合わせかもしれません。おまけに出版社が藍峯舎って、もう好きにしてください。

『不完全なる結婚』
クラフト・エビング
学芸書林/1969

完全なる結婚なんてものがあるなら見せてもらいたいです。通常、結婚といえば忍耐を学ぶ場であって、苦痛を受け入れる場ではありません。と、誰かの目を憚るようにして書いている時点でそれが結婚の本質です。

歴史はいつでもミステリー?

本の分類ほど頭を悩ます問題はないかもしれません。
たとえば『織田信長殺人事件』なんてタイトル、黒幕はあの明智さんに決まってますもの。

「ろ」の棚

『割礼 詩集』
松永伍一
国文社/1976

スパっと竹を割ったようなこの潔さは立派です。詩人たる者、鬱屈した感情を抱え陰に籠る傾向にありがちですが、内に秘めていた切なる望みを言葉にして表明したことで詩人としてひと皮剥けたというか…。

『メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか』
明川哲也
晶文社/2003

知りません。事実かどうかも知りません。むしろ日本人はなぜハゲるのか聞きたいくらいです、最近切実に。なるほど神経質になればなるほど余計にダメなんでしょうねぇ。

『ガ島』
小田実
講談社/1973

ガダルカナル島を「ガ島」とは、旧ソビエト連邦共産党中央委員会書記長のゴルバチョフ氏を「ゴ氏」呼ばわりした新聞の放胆さに比肩します。世界一短い地名は三重県の津らしいです(なんと英字表記で"Z")。

『暗殺百美人』
飯島耕一
私家版、学習研究社/共に1996

くノ一の濃厚な色仕掛けでメロメロにされたい…。こんな軟弱な連想では、色仕掛けられる前にスパっと刀で一撃にされるはずです。でも美人さん百人からいっぺんに?それはそれで悪い思いでもないのかな。

『<像>の不安 仮構詩論序説』
北川透
青土社/1972

明日の玉乗りが上手にこなせるかどうか心配で心配で夜も寝られないサーカスの象さんの不安とは一番かけ離れた位置にある、かなり高尚な詩論。こんな比較をすれば象さんにも失礼なのは承知しています。

『宗教哲学骸骨』
徳永満之
法蔵館/1892

確かに丸々と肥えた教祖さまや哲学者はどこか信用なりませんものね。食を忘れるほど没頭して道を究めようとすれば、どうしても骸骨みたいに痩せ細っていくに違いない。という低俗な発想では駄目でしょうか。

きっとサルには分からない

まさか『サルにも分かる花占い・乙女編』なんて本があるとはビックリ仰天です。
一体、おサルさんが花占いを知ってどうしようというのでしょうか、なぞです。

「い」の棚

『超男性』
(アルフレッド・)ジャリ
白水社/1975

良い方向に超えた場合、悪い方向に超えた場合、いづれにしても過ぎたるは猶及ばざるが如しでしょうが、及ばぬは猶過ぎたるに勝れりの場合もあるわけで、ちょっと物足りない男性がモテる秘訣かもしれません。

『火星人ゴー・ホーム』
フレドリック・ブラウン
早川書房/1958

ヤンキーゴーホームを皮肉った自虐もの。という短絡的なものの見方では、それこそ火星人にバカにされてしまいそうです。ですが、地球が侵略されたら言いたいでしょうね。火星人さん、おうちへ帰りなさい。

『みみず』
畑井新喜司
改造社/1931

本来日の当たらないはずの存在であるみみずに日を当ててしまった一冊。おかげでみみずも干上がってしまいました。雨後に道路を横断しているガッツあるみみずを見つけたら精一杯の声援を送りたいものです。

『豚は月夜に歌う 家畜の感情世界』
ジェフリー・ムセイエフ・マッソン
バジリコ/2005

もちろん豚だって歌います。オケラだってアメンボだって歌います。自己犠牲ヒーローの代名詞であるアンパンマンや因幡の白うさぎ伝説に親しむ日本人は一体どんな読み方をすればよいでしょうか。

『ナンセンス詩人の肖像』
種村季弘
竹内書店/1969

ナンセンス過ぎても困りますが、センスフルな詩人もどうかと思います。詩人とはおよそ生活のセンスを欠き、それゆえ人生の横道に逸れてしまい、結果として詩作にしがみつく。というのは意地悪い偏見です。

『激烈バカ』全15巻
斉藤富士夫
講談社/1988-1994

救いようがないどころか、救う必要すらない人たちを仮にこう呼ぶとします。すると不思議なことに、腹立たしい感情や蔑みの悪意もすべてどこかへ消えてしまいます。ものは言いようとはこのことですね。

若者たちの変遷

若くして胸を張り「古書店をやりたいんです!」なんて宣言する者は、昔は珍しかった気がします。
この頃は事情が少し違うらしく、つまり物好きな若者が増えてきたということでしょうか。