誰かに本を選んでもらう
それを素直に読んでみる
思うところを書いてみる
そんな、実に単純な試み
ほとばしる代読
and
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誰かに本を選んでもらう
それを素直に読んでみる
思うところを書いてみる
そんな、実に単純な試み
『不機嫌な姫とブルックナー団』
高原英理/著
講談社/発行
2016年8月25日
選書:MTさん(某店、店主)
まったく新しいジャンルの誕生である。
前例がないので名前もついていない。
そして誰も新しい名前を考え出すつもりもないようなので、こちらで勝手に名づけさせてもらうことにして、本作はずばりプロットノベルである。
略してプノベ。
読むに値しないような軽薄な小説をライトノベルと揶揄し、さらに意地悪くラノベなどと蔑称する世間の冷たい風潮とは違い、あるいは読むに値しないという点ではまったくの同義だと厳しいひとたちは見做すかもしれないが、プノベという類別化に個人的な悪意など微塵も含まれていないことは強調しておく。
ともあれ、この作品をひとつのジャンルにくくってみるとすれば、記念すべきプノベ第一号である。
小説におけるプロットとはつまり粗筋、物語の簡単な設計図である。
登場人物が誰と誰で、どんな世界設定で、なにが起こり、誰がなにをどう考え発言し、物語がどう展開していき、どんな風に終焉へと至るか、といった大雑把なイメージ。
では、プロットノベルとはなにか。
プロット段階の小説である。
いや、プロット段階であればそれは小説とは呼べないのであって、単なるプロットだ。
一理。
それをどうしてあえてノベルと称してあげるのかと言えば、チラシの裏の落書きを落書きと自覚したまま世に出して喜ぶ愚か者はまさかいないだろうと信じたいからだ。
しかし同時に、自分の落書きも立派にひとつの作品として成立するのだと、身の程知らずの作者が思い込んでいる可能性を否定できないことからの同情でもある。
一方、もうひとつ別の可能性として、つまりプロットとしての落書き原稿が誤って本原稿として印刷所へ回ってしまったという場合を考慮すれば、本作は手違いで世に出てしまった小説、いわゆる手ノベとも分類することができるかもしれない。
この場合は作者の負う責任は少ないし、なんらかの手違いで出版されてしまった取るに足らない手ノベなら、世の中に掃いて捨てても邪魔なほどある。
なんにしても、単なる落書きレベルのものをこの場では一端の小説に昇格して言及してあげるわけであれば、作者や出版社からなにかしらの謝礼品が届いてもいいくらいだが、あくまで公正中立の立場を固く貫く意志である以上そういった心遣いは必要ない。
◇
プロットノベルとして発表された作品の粗筋を改まって紹介するのも奇妙ではあるが、一往ここに記しておく。
語り手となるひとりの女性。
非正規職員の司書として図書館に働く、三十がらみの独身。
十九世紀の音楽家アントン・ブルックナーを愛している。
ある日ブルックナーのコンサートを聴く。
コンサート終了後のホール内で、見知らぬ男性から声を掛けられる。
同じコンサート会場にはその男性のふたりの仲間もいた。
男三人組は「ブルックナー団」と名乗るブルックナー愛好家たちだった。
その後、語り手と三人組の間にちょろちょろっとあって結末を迎える。
ざっとこんな感じ。
これではいくらなんでも端折りすぎだろうと思われるかもしれないが、これこそがプロットノベルのプロットノベルたるところなのである。
実際、この程度のことしか書かれていない。
むしろこれで全部。
おそらく、プロットの中にもいくらかの段階はあるだろう。
単なる思いつきから始まり、どうにか作品らしくしようと安っぽい空想を働かせ中身のないドラマを構想し、一層ちんけな創造力を発揮して設定を無駄にこねくり回し、登場人物に気の利いたせりふを言わせることもできるんだぜという低劣な見栄を隠せず、最近の風俗にも理解があるんだぜという顔を臆面なく晒し、そうしてどうにか使えそうなプロットとして練り上げていく過程。
本作においては、なけなしの頭を絞ってどうにか手を尽くしプロット最終稿として完成させたつもりかもしれないが、傍から見ればしかし、ものの見事に思いつきから先なにも成し得ていない。
先の要約で本作品の本質までを説明しきれている事実が、こうした見方も別段毒心に満ちた穿ったものでないことを保証してくれる。
そう考えると本作はプロットの第一草稿と言っていい代物だ。
稿の字を使ってあげる程度でもないのだが、ここは便宜上仕方ない。
つまり我々が読まされるものは、作者の最初の思いつきに毛の生えた域を脱していないままプロットのプロトタイプとして出版されてしまった手ノベなのである。
それはつまりプノベの中でも最低ランクに位置づけられるプノベだ。
ただ、これが世の中のプノベ第一号であれば、最低であると同時に最高ランクにも位置することにはなるのであって、作者はその意味で幸運かもしれない。
いや、あなたの方こそ大切なところが読み取れていないのではないか、などと反駁するのは大いなる見当違いであって、天井板に浮かんだチンケなシミ模様を芸術作品だと大騒ぎするのと同じことなので魯鈍を晒したくなければ黙っておいた方がいい。
通常、ラノベと蔑称されるようなジャンルに属するものですら、こうしたアイデアの原型に物語の肉づけをして、文章表現に最低限の工夫を凝らし、どうにかひとつの作品に仕立てあげていくはずなのだが、そしてそれは読み手に対する最低の礼儀でもあるのだが、作者がプノベなどという新ジャンルの開拓者として立身することにどこまで固執していたかは知らないが、先を急ぐあまり肝要な創作行為をなおざりにしてしまい、結果としてただのアイデアのメモ書きをそのまま作品として発表してしまったようである。
なので当然、読むに堪えない。
こんなものを買ってきて頁を開くのは、まったくもって時間とお金の無駄である。
と、怒り出すひともいるに違いない。
当方、仏の寛容を地で行くと自他ともに認める人間だからよかったものの、そうでない人間であれば憤慨のあまり作者や出版社に対してどんな示威行為に出たかわからない。
それを思えばやはり、この場所で少なくともひとつの作品として穏やかな心で評してもらえたことを関係者は深く感謝すべきだろう。
だからといって謝礼品の類いは一切不要なので心配しなくともよい、ほんとに。
◇
最後に少し、作中作のことに触れておこう。
三人組の男の内のひとりが「ブルックナー伝」という伝記を書いている。
実は、作中ではそれが数か所において長々と引用される。
引用どころか、むしろその伝記を主軸に物語を構成しようとしているらしく思われる。
しかし最後までこの件に一切触れずにおいたのは、こんな三文伝記など、触れても触れなくても評価の大勢に影響もないと判断できるからである。
裏事情を暴露すれば、実のところ、作者はブルックナーの伝記を書きたかった。
しかし編集者がそれを許さなかった。
音楽家の伝記で作品を成立させられるほどの才など望むべくもない。
でも書きたい。
それは無茶というもの。
無茶を承知で書いてみたい。
だったら「ブルックナー伝」を作中作として挿入するのは許してあげるから、メインストーリーは今世のライトノベル調で書いてください。
わかりました、元々ライトノベル以上のものなど書けません。
という経緯があったのだ。
作中作にしては分量が多く、本筋との連関にまったく説得力を持たず、全体として伝記の挿入がちぐはぐな印象しか与えないのは、作者の技量不足に加え、編集者との間にあるいは拭いきれない確執が残っていたためとも思われる。
最後のついでにひとつ仮定の話をするならば、作者は生れてこの方一度もまともに文章を書いたことがないのではないか、というのはどうであろうか。
もっと言えば、作者はこれまで一度も本を読んだことがないかもしれない。
そんな馬鹿なと嘲笑が漏れるくらいあまりに突拍子もない仮説ではあるが、そう考えるとすべてに合点がいくのではないか。
くだらないプロットを思いつくまではいいものの、そこにひとつの工夫も加えられず、あろうことかそれをそのままひとつの作品と主張する。
一度も文章を書いたことがなく、一度も本を読んだことのない者の所業。
おぞましい。
しかしそんな塵芥小説がどうして出版されたかとなればまったくの謎であるが、広い世の中なにかの手違いでそういう事故も起こりうるものなのだろう。
◇
人生をやり直すのに遅すぎることはない。
寛容な心を惜しみなく披露したついでに作者へ助言を与えるのであれば、まずは今日から少なくとも十年、とりあえずひたすら本を読んでみるといい。
そうして、世の中で言われる小説のなんたるかを知り、自身の身の程を恥じ、そこから文章修業に励めばよい。
合わせて二十年もあればおそらく、たとえ今はこの程度だとしても、どうにか読むに堪えうる人並みの日記くらいは書けるようになるはずだ。
分不相応の欲を捨て、落書きを小説と言い張ることもやめ、謙虚に暮らし、日の当たらない縁側でしこしこと日記を綴りでもして余生を静かに過ごすのもまた人生である。
了
※この文章はフィクション(虚構)です
☞ 手違いで侮蔑の度は過ぎたかも
誰もが英雄伝説を好む。
ありふれた登場人物が退屈な日常を過ごすだけの物語より、たとえそれが汚れた英雄だとしても、ひとはどちらかといえば彼らの冒険活劇を欲するものだ。
How Music Got Free:
The End of an Industry, the Turn of the Century, and the Patient Zero of Piracy
原題を素直に訳せば、音楽はいかにして無料になったか、産業の終焉、世紀の変わり目、海賊行為の発生源、くらいが適当だろう。
ここで言う産業とはレコードの誕生とほぼ起源を同じくする音楽産業(パッケージメディアを取り扱うという意味)のことであり、世紀の変わり目は直接には二十世紀から二十一世紀への境目のことであり、比喩的な意味合いとしてはインターネット時代の幕開けを指し、海賊行為とはコンピュータ技術の進化とインターネットの誕生及び爆発的普及から生じた世界規模の著作権侵害行為のことを言う。
オーディオデータの革新的な圧縮技術を開発したドイツ人研究者。
発売前の音楽を大量に盗み出しネット上へ流出させまくった黒人労働者。
いくつものレーベルを股にかけ超巨大音楽産業をひとり牽引した企業エリート。
簡単に言えば本作は、現実世界では決して直接の結びつきがないこの三人をキーパーソンに据え、かつて少なくない金額が支払われパッケージソフトとして購入されていた音楽が、いかにして無料のデータファイルとして手に入れられるようになったのかを物語仕立てにして書き上げた、非常にスリリングで読み応えのあるルポルタージュである。
以上、おしまい。
◇
いや、残念ながらそうはいかない。
川の流れの全体を知ることは容易ではない。
海に流れ込む大量の水に感動し、川を遡り、源流を見つけ、ここがこの大いなる川のすべての源だったのかと感銘を受けるようでは幼稚である。
岩の隙間からちょろちょろと湧き出る清水がいかにして大きな流れになっていくか。
目を凝らし、想像力を働かせ、物事の全体を見渡さなければならない。
始まりが岩清水であることを頭から否定するのではない。
ただ、片手で掬える程度の水がそのまま流れていくだけで勝手に大河に変容するわけではないことを事実として認識しておく必要はある。
最初の岩清水がなければあるいは川は始まらないかもしれないが、隠れた地中から地下水が染み出てこなければ川の流れは続いていかない。
本作では、源流の数滴と地表を流れる川の水面だけが世界のすべてであるかのように、時代と社会の上っ面だけが無邪気に描写される。
これは徹底的に低俗なロマンチシズムである。
もちろんロマンチシズムに陥ってしまう非のすべてが著者にあるわけではなく、読み手が安物のロマンを求める傾向にあることも大きな原因だ。
あるひとつの社会変革的事象を、限られた数の英雄たちが絶対的能力の持ち主として活躍する冒険活劇に仕立てて見せることは、読み手を世の中すべてのからくりを理解した気にさせるには便利すぎる手法である。
知ってか知らずか、多くの読み手はこうした単純な手に乗っかってしまうものだ。
気をつけなければならない。
著者の意図はどうであれ、物語を楽しむ側は常に読み手である自分自身を冷静に俯瞰できる目を持っていなくてはならない。
ルポルタージュを読む時に大切なことは、スリリングなストーリーにのめり込むあまり批評家としての立場を見失わないよう確かな意識を持ち続けることだ。
◇
実際の問題として、パッケージメディアとしての音楽に部分的な終焉の時が訪れていることは揺るぎない現実であり、非常に興味深い転換である。
かつて音楽は形を持たない生モノであり続け、蓄音機の発明に端を発する録音技術の革新によりパッケージに保存され大量生産の道を歩み、さらなる技術の飛躍によりパッケージから解放されインターネットを基盤とするデータメディアの中に閉じ込められふたたび見かけ上の形を失った。
音楽はどこへ行ったのか?
音楽はいかにしてその姿を消したのか?
たったひとりの音楽狂、エリートビジネスパーソンが欲をかいてみずからの懐に仕舞い込んだのか。
ラップミュージックをこよなく愛するひとりの青年が自室のロッカーにすべて押し入れてしまったのか。
ギークもしくはナード、あるいは世間知らずのITスペシャリストが魔法を使って異次元世界へ転送してしまったのか。
本作を読んで大まかに川の流れを把握したなら、次は頭を働かせなくてはならない。
社会の隅々に目を向けなければならない。
狭い本の世界を飛び出して、広大な世の中を知ろうとすべきだ。
コンピュータ技術の歴史に明るくなければ明るくなれる本を見つけるのもいい。
違法行為に手を染めなくとも、違法行為のなんたるかを検索することはできる。
音楽産業の内幕は、どこの業界にも見られる合併と買収の泥仕合に過ぎない。
頭を使って考えてみたら、なにが見えてくるだろうか。
川の流れが従っている法則はなにか。
たったひと握りの人間がその流れを捻じ曲げ、あるいは消滅させられるのか。
音楽はタダになったのか、音楽産業は終焉を迎えたのか、技術は時代を変えたのか、世界はデータに支配されうるのか、音楽を奏でるのは誰で、それを楽しむのは誰なのか。
インターネット世界が無限の広がりを見せる以上に、理性の源泉から湧き出る我々の想像力と思考力はどこまでも無尽蔵であるはずだ。
了
※この文章はフィクション(虚構)です
☞ 自分を手放しで褒めてあげたい
ダイエットに取り組んで体脂肪率を10パーセントにまで落としたら、私の体、9割の細菌と1割の脂肪だけになっちゃったわ!という、とあるイギリス人女性の悲劇を追った衝撃のサイエンスドキュメンタリー、ではない。
ちなみに本書の原題はこんな具合。
10% HUMAN: How Your Body's Microbes Hold the Key to Health and Happiness
比べてみれば、原著が1割の部分を謳うのに対し、翻訳では残りの9割に焦点を当てているが、これは比率の多寡どちらに着眼するかの違いであって問題はない。
それより気になるのは、原著では "microbes"= 微生物という単語しか用いていないにもかかわらず、翻訳では細菌と微生物という単語を使っている点である。
これは、細菌と微生物という用語の定義に詳しくない場合に限らず、混乱を招く。
本書の内容に即して言い直せば、あなたの体の9割は、ここでは都合上ウイルスまでをひと括りにしちゃうけれど、主に細菌を中心としたいわゆる微生物学的に微生物と呼ばれるもので出来上がっているのだ、くらいが適当だろう。
しかしそうであるなら結局は、頑張ってダイエットしたら1割の脂肪と9割の微生物になっちゃったじゃないの!という悲劇なのかといえばそれも違う。
9割が微生物であることに間違いはないのだが、残りの1割がまるまる体脂肪で大変だという話ではない、そんなことは最初からどこにも書いていない、誰だそんなことを言い出したのは。
ここで言う1割というのは、原題で言うところの人間そのもの、別の言い方をすれば、微生物を除き、我々の体を構成するすべての要素を指すのだ。
さすがに、にわかには信じがたい。
皮膚や骨、筋肉や脂肪、臓器や血液、その他諸々の総計が体の1割にしか当たらないとは。
もしそれが事実なら私の体脂肪なんて案外少ないものじゃないの?などと空想するのは糠喜びになるのでよしたほうがいい。
どんなうまい話にもからくりはある。
この場合の種明かしは実に単純で、取り上げているパーセンテージは質量や体積のことではなく、数量の問題なのだ。
人体を構成する細胞の総数に比べ、体内および体表に存在するいわゆる微生物の数は圧倒的に多いのだよ、と。
つまり、見るひとへ簡単にインパクトを与えうる、数字のマジックだ。
えー?人体細胞と微生物の個体を数量の上で比較しちゃうなんてどうなの?と訝しがるのも無理はないが、ここで文句を言い始めたところであなたの体脂肪が1グラムとて減るわけではないのであって、まずは自分の足にフィットする運動靴でも買って今日から走り始めたほうがタイエットへの近道にはなるかもしれない。
◇
一旦ダイエットから離れよう。
そもそもダイエットなどと言い出したのはどこの誰だ。
本書は断じてダイエットのハウツー本ではない。
いや、ハウツー本ではないにしても、実はここに書かれている内容の一部は現代病の代表格ともいえる肥満症と少なからず関係しているのだ。
であれば、必ずしもダイエットから離れる必要があるわけではない。
ダイエットは難しい、多くのひとが実体験から学んで知っている事実だ。
これほど容易に挫折する人生の目標はなく、失敗すればみずからを絶望し、周囲からはこの根性なしと嘲笑されるのだが、生れてこの方肥満とはとんと無縁の生活を送っている者からすれば、そもそも食うことには目がないブタのような分際でダイエットを試みるなどはまったくのナンセンスである、と誰かがどこかで陰口をたたいていた気がする。
いやはや、ひどい物言いをする人間もいるものだ、罪なきブタに謝れってなものである。
では、見方を変えてみればどうだろう。
数量の上では体細胞に比して9倍に上る微生物であるが、体中から掻き集めて秤に乗せてみると彼らの総重量はおよそ1キロくらいにはなるらしい。
そうであるなら、殺菌剤でもなんでも使って我々の全身から一切の微生物を取っ払ってしまえば誰でも簡単に1キロの減量に成功する計算となる。
出た、魔法の微生物ダイエット。
いや違う、断じて違う、ダイエットから離れる必要はないなどと言い出したのはどこのどいつだ。
微生物を取っ払ってはいけない、彼らを粗雑に扱うと痛い目に合う。
特に、主に腸内に生息する微生物たちには最大の敬意を示してしかるべき、おそらく本来はそういう主旨のことが書かれているはずだ。
簡単に言えば、我々が口から摂取した食物は胃で軽く消化され、小腸でさらに消化されつつそれなりに養分を吸収されたあと大腸へ向かい、中でも結腸と呼ばれる中枢部において微生物群に遭遇し、彼らの助けを借りて残りの栄養分を搾り取られる。
難しい事情は割愛するが、最後の吸収の過程で大腸の微生物群は自己の生存のために小腸から流れてきた残飯を最大限に利用するわけだが、しかし同時にそれが実は我々の人体に大きく益することとなるのでありその点を正しく感謝すべきで、とはいえそうした活動も回りまわって結局は微生物たち自身の生息環境をちゃっかり自衛することになるのであれば、なによ微生物なんて遺伝子と同じで随分と利己的なのね、というひどい結論に落ち着いてしまうのである、いや違う。
少なくとも微生物群が腸内にバランスよく生息してくれたら我々人間にとって大変ありがたいことであるのは間違いないらしく、彼らの食糧ともなる食物はしっかり摂取し、カロリーオーバーなど心配せずとも取り込んだ分は彼らがきちんと消化分解をしてくれるのであるから、低糖やら低脂肪などとくだらないことは言わず、せいぜい彼らを鞭打つくらいのつもりになってチョコレートでもステーキでもガシガシ食べてやろうぜ、という話である、いやこれも違う。
◇
うーむ、何がなんだかさっぱりわからなくなってしまった。
つまるところ、ダイエットのように人間の生き死にに関わる重大な問題を含め、こうした科学的著述の含まれた内容の場合は殊更、中身を公正に理解するためには本書を購入し各自の判断で読み解いていただくしかない、ということでお茶を濁しておこう。
ここまで引っ張っておいてそれではあまりに無責任だと非難されてもこちらの関知するところではないのであり、遺伝子や微生物に限った話ではなく、おしなべて命あるものみな利己的で身勝手な存在なのである。
了
※この文章はフィクション(虚構)です
☞ せめて1割は脳細胞だと嬉しい
薄っぺらのスカスカ。
重みのおの字も感じられない、なんとも潔い詩集である。
ここで言う軽薄とは、本の体裁、印刷物としての本それ自体の話だ。
ソフトカバーに包まれ、中身はわずか百ページ足らず、開けばたっぷり設けられた余白が第一に目立ち、四十三篇の詩のようなものがむしろ申し訳程度に肩身も狭く印刷されている。
学生の身分で暇にあかして詩のようなものを綴るのが趣味で気張って無料冊子なぞを作ってみた、であるなら合点できるものの、いい大人がこれを商品として書店に並べて売ろうとするのだから、もはや世の中は狂気の時代に突入しているとしか思われない。
ほとんどすべての見開きで印字面積より空白のほうがはるかに広く、そこに積極的な意味をなんら見出せないとあってはメモ帳代わりにしてもいいくらい、というより、そうにでも使わなければ紙の無駄使いだと、今は亡き祖母が枕元に現れて厳しく叱ってくるだろう。
なんにしても、この杳々にして軽忽な詩集を手にとってみて、心臓の高鳴りがひとつも感じられないことは事実である。
いや、あらゆる事物においてスピードと手軽さが徹底して求められる昨今、重厚、濃密な書物を所有する喜び云々という発想自体が時代錯誤なのかもしれない。
繰り返すけれど、これは詩作そのものの評価ではなく本の体裁に限った話なのであって、そこを早とちりして、この野郎、詩人の風上にも置けない腐れ詩人のポンコツめ!などと作者を口汚く罵ってはいけない。
なんらかの正当な理由、たとえばまっとうな詩集を仕上げるには体力がほんのちょっと足らなかっただけとか、頁の余白こそが詩作の情趣だという間違った教育を受けて育ってきたとか、あるいは作者なりにのっぴきならない事情があったのだろうから。
などと知った風なことを言いながら、自分こそ体裁にかこつけて痛烈な嫌味を好き放題に垂れ流しているのではないか、などと勘繰るひとがいたらそれはきっとそちらの性根がひん曲がっているだけのことである。
あくまで本の体裁と詩作の質は別の話なのである、一致する場合もあるとは聞くけれど。
◇
では、肝心な詩作そのもの。
まずはタイトルだが、なんといっても最高密度が目につく。
いっそ同じ顔の部位を使った慣用句、鼻につく、と言い換えても差し支えない。
この、一見すると気の利いたような、その実は幼児語さながらの言い回しに詩的情感の妙を感じてしまい、にわかに胸ときめかせるようなタイプであれば、この物質的に厚みをもたない作品へそれなりのお金を払ったとしても精神の健康上なにも問題は生じないだろう。
高密度ではなく最高密度と不用心に使うあたり、詩人としての底が計り知れる。
いやむしろ、作者は高密度なんていう言葉を金輪際知らない。
万が一知っていたとしても、この場合は間違いなく、高密度から辿った道筋の帰結点ではなく、ただ軽い思いつきで一足飛びに跳躍して着地した結果の最高密度だっただろう。
こうした迂闊な言語感覚にそれでもやはり無条件に胸ときめいちゃうとしたら、このタイトルを数度声に出して読み上げただけで興奮のあまり悶絶死してしまうはずだ。
冗談ではない、この程度で詩的情感とは噴飯ものだと手厳しく嘲るひとも、底が計り知れる作者に向かって、馬糞を塗りたくった石を投げつけてはいけない。
程度の知れることが直ちに悪いことにもならない場合はある。
誰だって身銭を切ってまでして見ず知らずの他人が抱える暗い闇を覗き見て楽しんでやろうとは思っていないのだから、すっかり底まで見通せる安心感は時に大切なことなのだ。
むしろそんな程度の作者でよかったかもしれない。
無邪気に最高密度などという言葉を採択して欣喜している詩人の姿が目に浮かぶ、それはつまりこちら側の精神の正常と安寧が保証されることでもあるわけだから、やたら投石行為に出るのではなく、紳士淑女の寛容を見せてそっと憐憫の手を差し伸べてあげればいい。
しかし、どうしてもこの最高密度などという幼児語に生理的拒絶感を抱くようであれば、それは一方で至極まっとうな反応でもあるのだが、あちら側から見れば潮流に乗り損ねた前時代人という扱いになり兼ねないので、当世の陳腐な好尚を懐深く受け入れられるゆとりをどこかで準備した上で出直してもらうしかない。
◇
出端を大きく挫かれながらも、一往は詩のようなもの全篇に目を通すとする。
まったく簡単なからくりであるが、作者の詩作は、たとえるなら積み木遊びだ。
眼前に転がる、使い慣らされた言葉を並べ重ね、それらしく見せる児戯に過ぎない。
たとえ同じような形、同じような色の積み木であっても、みずから手を動かし色づけ磨き上げた言葉とは異なり、掃き溜めから拾ってきてただそこに置いただけの言葉は、込められる覚悟の重みに限界がある。
つまり作者は、言語表現の追求に自分の手を煩わせない。
体よく並べ上げられただけの積み木のひとつひとつ、言葉のひとつひとつは結果として作者自身と同一の存在を持ちえない、劣化した分身にすらならない。
よって、誰にも作者の姿は見えない。
拠りどころなく積み上げられた積み木は、作者の手を離れた途端、どこからでも一瞬にして瓦解する運命の単なる木片の山となり、また、見目奇矯なだけの言葉の文様といった地位に落ちぶれる。
それでももし作者の詩作に優れた独自性を認めたと言うのであれば、積み木の並べ方、積み方、組み合わせが、言葉に慣れない人間にはせいぜい少し目新しく映るだけに過ぎない現実をどうにか透かし見る努力をするべきだ。
作者の用いる言葉は、精魂を傾けて形作るような粘土細工ともまるで違う。
手も汚さず、練り込み練り上げる熱意もなく、それでもなにかを言い立てようとするのであれば、そこらに見捨てられた積み木を拾ってきて適当に並べておけば事足りる。
作者はその、精神の怠惰に甘える。
嬉々として奇を衒い、ただ漫然と並べただけの積み木に魂はかけらも宿らない、揺るぎない真実だ。
表現のすべとして選んだのはいいにしても、しかし、真摯に向き合わず、言葉という媒体の生々しい深部に触れようとしない人間、近づこうとすらしない人間が表現に取り組むとこうした残念な結果になるという典型を示している。
まさかとは心配していたが、どうやら本の体裁と詩作の質とが見事に一致してしまっていたということになる。
しかしそうであれば、本作はその点で看板に嘘偽りのない誠実な詩集ということにはなるのであって、この腐れポンコツ詩人め!と罵り、馬糞を塗りたくった石を作者に投げつけるほどではないようで、いやぁ、よかった。
言葉にまみれ汚れ傷つく覚悟のない者に、言葉は決して身を委ねない。
言葉に見放された人間の口から漏れ出る戯れ言は、誰の心になにひとつ映すことなく、最高密度の青い夜空にただ寒々しく響く。
了
※この文章はフィクション(虚構)です
☞ 真の批評は建設的誹謗を内含す
コミックエッセイというジャンル。
ほとんど馴染みのない分野だけれど、大体の見当はつく。
臆見で意訳をすれば、取るに足らない読み物、くらいが適当だろうか。
まず表紙を見ると最初に知れることだが、コミックエッセイであるにもかかわらず、作者はコミックという表現手段での勝負を端から完全に捨てている。
というより多分、勝負できるだけの技量を持ち合わせていない。
つまり、簡潔に言うと絵がド下手なのである。
それはしかし、ごく贔屓目に見てあげれば、内容一点に勝負を賭けようとする意気込みであるのだろうが、一方、随筆は文体が第一であるという重大な命題を思い起こせば、コミックエッセイとて例外ではなく、残念ながらこの時点で本作はやはり大いに負けている。
なにに負けているのかと問われれば、そこまで深くは考えていない。
そしてタイトルである。
サブタイトルも含め、あるいはここには編集側の一方的な意向が反映されている可能性は否定できず、作者にすべての責を負わせることは酷なのかもしれないが、とにかくこちらもまるで負けている。
なにに負けているのかと問われれば、そこまで深くは考えていないけれど。
屁理屈を言うなと叱られるかもしれないが、キレる私をやめたいという願望を掲げているにもかかわらず、作者はせいぜい夫をグーで殴る妻をやめるまでしか成功していないことがサブタイトルからすっかり読み取られる。
グーで殴ることはやめられたかもしれないが、パーで張り倒しているかもしれない。
もしかしたらチョキという反則行為で危険な攻撃に出ているかもしれない。
いづれにしても、本質のところで、キレる私をやめられていないのは粗方間違いない。
負けている、表紙を確認する段階で作者はすでにいろいろ負けているのだ。
◇
ところが。
負けることを悪と考える発想こそが、作者が悩みに悩み抜いている問題の根源であるという現実がこの中にはありありと描かれている、とても下手くそな絵をもってして。
作者はとにかくよくキレる。
程度と頻度が尋常ではなくキレるので、生活に多大な支障が生じる。
自覚はある、周囲に比べてキレ過ぎていること、そんな自分を受け入れてくれる社会の中に生きてはいないこと。
そして自分を責める、キレる私は自分に負けている、そして悪である、と。
考え方によっては、およそ解決に光明の見えない作者の葛藤が貧弱に過ぎる画力となって表れているのだろうかとも解釈されるのだが、そこまで肩を持つことはないのであって、正直なところ、この絵の程度で冒頭から結末までを読み終えるのは内容如何とは別問題に甚だ苦痛を伴う。
それはさておき、そもそもキレてしまうという問題はどういうことだろうか。
キレたくなくてもキレるのは、個人生来の気質に原因があるのだろうか。
環境などから後天的に獲得された性合に起因するものだろうか。
作者はその分野の専門家ではないので、この点はほぼ考察されていない。
専門家ではないこととは無関係に、むしろ積極的な考察を避けているのかもしれない。
作者個人の理由に限らず、こうした繊細な問題は一般的にも素通りされがちな不可触の領域なのだろうか。
本作が単なるドキュメンタリーな読まれ方をされたいのか、ある種の手引書として利用されたいのか、制作者の意図はわからないけれど、どちらにしても観察と考察が問題の深部まで分け入っていないので、へえと無責任に感心したフリを気取るか、そうだよねと気休め程度に同情したフリを見せるかのどちらかしか読者としての態度に選択はない。
◇
キレるということと無縁の生活をしている者にしてみれば、この本の中に描かれている物語から実感としてなんらかの感情が生起されることはないだろう。
キレるという衝動を身体経験として理解できる者からすれば、ここに描かれている諸々の事象を、自分の世界をそっくり映した鏡像のように受け取るかもしれない。
ひとりの読者としてどちらの立場でこの作品と向き合うことになるだろうか。
などと、まとまりのいい結末をつける前にひとつつけ加えておくならば、この作品を通読しようとする行為は、ある別種の試金石とはなりうる。
心に波風ひとつ立てず、この稚拙なイラスト群に耐え抜いて本作を読み切ることができたとしたら、きっと温厚で立派な人間に分類されるだろう。
程度の低すぎる画力がどうにも我慢ならず、途中で投げ出すか、本を破り裂くか、壁に叩きつけるか、作者をグーで殴りたくなるようであれば、もしかすると正直者の部類に認められるかもしれない。
なんにしても、とにかく一番大事なことは、ひとをグーで殴るのをやめたい場合は、チョキという選択肢だけは完全に封印して、せめてパーでどうにか対処することだと、この書物はかろうじて我々に教えてくれている、ような気がしないでもないのだった。
了
※この文章はフィクション(虚構)です
☞ 相手がグーでくると考えてみる
第155回芥川賞受賞、と帯にあった。
芥川賞とはもちろん、あの芥川龍之介賞のことである。
大体年2回発表されるとのことなので、それなりに長い歴史をもった文学賞といえる。
芥川龍之介賞と対になって出てくるのが、あの直木三十五賞。
芥川龍之介といえば、ああ『羅生門』とか『蜘蛛の糸』などを書いた人で、直木三十五といえば、えっと、ほら、あの…で言葉が止まる、多分架空の人物である。
そんな実在しない作家は脇におくとして、そこそこ名の知れた芥川龍之介なる作家の名を使用した文学賞に認められた作品は、瞬間的に全国の書店でうずたかく平積みされ、図書館の貸出待機リストが埋め尽くされるほどの影響を被る。
一度この賞を受賞してしまうと、生涯に亘り「芥川賞作家」という表札を玄関にぶら下げなくてはならない名誉を同時に受け入れることにもなる。
おそらく、受賞作品の作者は複雑な気持ちを抱えながら、それでもきっと素直に喜んでおくべきだと覚悟を決める、そんな賞のひとつであろう。
ついでに加えておくと、この芥川龍之介賞というのは、時代の波に乗れると判断されれば一度に複数作品が受賞したり、そうかと思えば授賞に値するような作品が身内や周辺に見当たらない場合は該当作なしとすることもあるらしく、これまで一体どれだけの作品が恣意にまみれて選出されたのかは知らない。
◇
さて、コンビニ人間である。
ごく普通に受け取れば、コンビニエンスストアで働く人間、あるいは店の利用者にまつわる日常風景を描いたドタバタコメディーの類いを予想するところだ。
しかし、なんといっても芥川龍之介賞。
コンビニ、つまりコンビニエンス=便利な、という形容を文学的隠喩をもって用いた、なにやら重々しいテーマが内在された人間ドラマではないか、と構えてかかった方が安全だとするのもまた正しい料簡である。
ところがこの作品に限っては、そんな良識的な見方こそが実は不正解なのだ。
冒頭の四行を読んだだけで、それはすぐに判明する。
これは肩肘張る必要のない、ライトなノベルなのだと(ライトノベルではない、なんたって芥川龍之介賞なのだから)。
なんだそうかと完全に気を抜いて読み進んでいけば、タイトルから誰もが抱く第一印象の通り、そして世に数多あるコンビニエンスストアと同じくして、お手軽便利に徹底した画一的ストーリーのみがそこに展開されているのを目の当たりにする。
そういう意味では、本作はやはりライトノベルに分類されるべき代物ではないかと疑問する人もいるだろうが、芥川龍之介の名にかけてそんなことはないんじゃないかな、ときっぱり断言しておく。
大学一年次から卒業の後も18年間通してコンビニでアルバイトを続ける36歳の独身女性が語り手となり、彼女の目に映った周囲の人間風景を断片的に分析し、時にそこから自分の意識や存在を内省するような形の独白を挟み、彼女が自身の人生にあるひと区切りをつける前後を、深長に見せておいてその実そうでもない軽佻な調子で綴っている。
なんとか最後まで読み通せば、これこそがまさにコンビニ人間と呼ばれうる存在なのだろうかと、読者としてはなにがなんだかよく分からないまま、作者の言わんとしているなにかをぼんやりと了解するしかないのだなという境地に行き着く。
◇
しかし一方、語り手である女性に対する、言語表現による人物造形という点においては、作者は見事に盛大な成功を収めていると見ることができる。
本来ならわざわざ物語の主人公として取り上げる程でもない平板な人格を大仰に飾り立てて語り手に据えるわけだから、その人物像を読者の前に浮き彫りにする労力は並大抵のものではない。
そこを作者は持ち前の巧みな技法を駆使して、こちらの想像をはるかに越え、実に魅力あふれそうな人物として書き上げている。
明らかに張りぼてとわかるような、作者自身が微塵も自分のものにできていない、読まされる立場としてはまったく退屈な言い回しの数々を、あえて臆面もなく主人公に直接語らせてしまう作業は、コンビニエンスストアという大量生産大量消費社会的存在を象徴的にほのめかす効果を狙ってのことに間違いない。
そして、安直で稚拙に過ぎるイメージの多用、統一しきれない世界観、一切の魅力が感じられず説得力のかけらもない御託、精一杯背伸びして意味づけしようとするもことごとく失敗に終わっている取るに足らないエピソードの執拗な挿入、これらすべてを語り手の口を通して読者の前にありありと提示することで、主人公の空疎も空疎な個性を実に器用に浮かび上がらせている。
こんな作者のずば抜けた技量にはもう、誰もが参りましたと唸るしかないだろう。
ただし、空疎な鏡に世界を映せば、当然そこには空疎な姿しか現れないのは忘れてならない現実ではあるけれど。
◇
物語の三分の二を過ぎた辺りからの展開はありふれた予定調和を地で行く最たるもので、そのまま尻切れトンボな終幕(芥川龍之介賞ということを鑑みれば、良く言って主人公のカタルシス)へと続く一連も、現代のコンビニエンスストアが抱える根本問題、つまり「いい加減飽きてるけど、なんとなく都合がいいから利用しちゃう」という消費者心理に支えられた脆弱な存在感(芥川龍之介賞ということを鑑みて、かっこよく言うとレーゾンデートル)への強烈なアイロニーと拡大解釈することは、この作品においてはあながち見当はずれとも言えないことにしておけば叱られないかなと、寝る前の蒲団の中で無理やり読了したせいで脳内の糖質が極端に不足した状況においてしんみり思う。
なにはともあれ、最初から最後までなにがなんだか判然しないままヨロヨロと通読してしまう結果になってしまったけれど、芥川龍之介賞受賞の底力はいろいろ侮れないものだと、この上なく感性の乏しい読み手と自認する身としてはただただ感服する次第なのであった。
了
※この文章はフィクション(虚構)です
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